「愛、アムール」

愛、アムール(字幕版)

愛、アムール(字幕版)

仏教では人間が避けることのできない根本的な四つの「苦」が規定されている。すなわち、生きること、老いること、病むこと、死ぬことだ。これらを併せて四苦と言う。仏教でいう「苦」とは単純な苦しみのことではない。ままならない、思うようにならない、どうにもならないことという意味だ。不条理と言い換えてもいいだろう。人間は生老病死の四苦を絶対に避けることができない。どんな人間も等しく絶対に。

「二の矢を受けず」という言葉がある。仏陀とはあらゆる煩悩から解き放たれた者という意味だけれど、仏陀であろうとも「苦」を避ける事はできない。なぜなら、四苦はどんな人間にも等しく絶対だからだ。しかしであれば、悟りとはなんであろうか? 仏陀となっても「苦」から逃れられないとしたら、仏の道を究めることになんの意味があるだろうか?

原始仏教における最初期の経典である言行録『サンユッタ・ニカーヤ』で釈尊はこう答えている。「二の矢を受けず」と。

不意に襲いかかる矢はだれにも避ける事ができない。そして凡夫はその矢を受けることで慌てふためき、さらには追い討ちの矢までも受けてしまう。しかし仏の教えを知る者は、一の矢が絶対に避けられないことを知っている。だから一の矢を受けても慌てることなく、冷静に二の矢を避ける事ができる。

言うまでもなく矢とは「苦」の例えである。人間は避けられない「苦」に思い悩まされる。しかし仏陀一切皆苦――この世界は「苦」を本質としていること――を知っている。これを苦諦という。苦諦を得た仏陀は一の矢、すなわち四苦について思い悩み、新たな「苦」を生むことがない。四苦を受けることについて囚われ、さらなる「苦」に悩むこと、それこそが二の矢である。

「二の矢を受けず」――仏陀は四苦に悩むことはあっても、苦諦の境地にあるためそれに囚われることはない。

しかし、それは誰にでもできることではないのだ……。