J・M・クッツェー『遅い男』

遅い男

遅い男

序盤はクッツェーらしい極限まで無駄を削ぎ落したリアリズム小説としてメロドラマのような展開が続くのだが、物語の中盤で唐突に謎の女流作家エリザベス・コステロ(!)が現れ、この小説の冒頭の文章を一語一句違わず読み上げるシーンを迎えることで、この小説を支えていた土台は木っ端微塵に崩壊し読者は中空に放り出される。それまで築き上げてきた世界観が一瞬にして吹き飛び、もはや描かれているものが何も信用できなくなり、終盤まで困惑するしかなくなる。最高だ。

『恥辱』もそうだったが、全編にわたってみっともないというか情けない気分が漂い、終盤にいたってはできの悪いコメディのようで苦笑するしかない。しかし切実な感じもして、自分とは別の世界のできごとと切り離すことができない。この居心地の悪さ、歯切れの悪さはメタフィクショナルな点も含めてミヒャエル・ハネケの映画に近いと思った。