重松清『きみの友だち』

きみの友だち (新潮文庫)

きみの友だち (新潮文庫)

友情をめぐる連作短編集。チームしゃちほこ咲良菜緒さんがブログでこの本をおすすめしてたので読んでみた。

作者が想定している読者層はおそらく中学生から高校生あたりなので、いい年した自分にとってはややこそばゆいものがあったけれど、子供たちの無邪気な残酷さや学校内のギスギスした社会関係のリアルな描写は「たしかにこんな感じだったかもなあ」と思い出したし、陰湿ないじめの描写には身震いした(千羽鶴に隠されたメッセージには戦慄……)。しかし、そんなことがあっても人生はそんなに悪いものじゃないと励まされる小説になっていて、まさに人間関係に悩む多感な時期のひとたちのための本だと感じた。

こういう「良識的」な作品は、問題の上っ面だけを撫でて綺麗事を並べ立てるようなものが多いけれど、この作品はそうではない。励ましはするけれど、ではどうすればいいのかという解答までは出さない。どんな問題でも解決できる処方箋なんてないんだから、これは誠実な態度だと思う。咲良菜緒さんは大親友にこの本を薦めてもらったそうだけど、ほんとうに良い友人なんだろうなと感じた。

でも、この小説を読んで人生を生きる希望を得るひとは、この小説を読まなくてもなんとかなるんじゃないかなとも思う。

新約聖書』の「ルカによる福音書」にこんなエピソードがある。

なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや。

イエスは言った。あなたたちが百匹の羊を飼っていたとしよう。もしそのうちの一匹がいなくなってしまったとしたらどうするか。九十九匹を野原に残して、いなくなってしまった一匹を見つけ出すまで探し歩くのではないか。

文芸評論家の福田恆存は「一匹と九十九匹と」という小論でこのエピソードを引き、キリスト教の教義的な解釈をよく理解したうえであえてこう述べている。

九十九匹を救へても、殘りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか――イエスはさう反問してゐる。かれの比喩をとほして、ぼくはぼく自身のおもひのどこにあるか、やうやくにしてその所在をたしかめえたのである。ぼくもまた「九十九匹を野におき、失せたるもの」にかかづらはざるをえない人間のひとりである。もし文學も――いや、文學にしてもなほ失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか。

福田は政治と文学の峻別についてこう言う。政治は百匹の全ての羊を救おうと試みる。しかし世の中にはどうしても政治では救えない一匹の迷える羊が必ず存在する。九十九匹は政治によって救われるかもしれないが、一匹は永遠に救われない。その失せたる羊を文学が救わないとしたら、その一匹はいったい何によって救われるというのか。

僕は『きみの友だち』が悪い小説だとは考えていない。それどころかとても巧みな作品だと思う。

しかし、本当にひとりも友達がいなくて周りの大人達も信用できなくて孤独でどこにも居場所がなくて全てに絶望していますぐにでも死んでしまいたいと思っている子供は、この小説では救えないんじゃないかとも思わずにはいられなかった。