高行健『霊山』

霊山

霊山

おまえは言った。この物語は結末を変えれば、好色を戒める道徳的な訓話になる。
さらにこの物語は、仏門への帰依を勧める宗教的な説話ともなり得るだろう。
またこの物語は、処世哲学としても読める。君子は毎日三度その身を振り返るべきこと、人生は苦しみだということ、生の痛みはすべて己の身に由来することを語っているのだ。この物語からは様々な、奥深い学説を引き出せる。それは語り手の最終的な解釈に委ねられている。
物語の主人公の大司馬には名前があり、歴史書や古書を調べれば考証が可能だろう。だが、おまえは歴史家ではないし、政治的野心もなかった。道学者になるつもりも、伝道師になるつもりも、人の模範となるつもりもなかった。おまえが気に入ったのは、この純粋な物語そのものだ。どんな解釈も物語自体とは直接関係ない。おまえはこの物語を言葉で再現したいだけだった。

哲学は結局のところ、一種の知的ゲームだ。それは数学と実証科学の手の届かない周縁にあり、各種の精密な枠組みを作り出す。この枠組が完成したとき、ゲームも終わりとなる。
小説が哲学と異なるのは、それが感性から生まれることだ。気ままに考案された信号を欲望の溶液の中に浸透させると、いつの日か、これが予定通りに細胞となり命が生まれる。その誕生と成長を見守るのは、知的ゲームよりさらに面白い。だが生命と同じように、最終的な目標はないのだった。

この章は読んでもよいし、読まくてもよい。読んだとしても、それだけのことだ。

引用した文章がこの作品自体への言及となっていて、他に付け加えることはないように思う。

この作品は普通の小説ではない。登場人物がいるようでいないし、ストーリーもあるにはあるがさほど意味をなしていない。

この小説はだれもがたのしめるものではない。でも、これを必要とするだれかにとっては、この本を読むことは、何よりも特別な人生を根底から揺さぶるくらいの読書体験になると思う。

しかし、これはだれかのための作品であって、あなたのための作品ではないから、読んでもよいし、読まくてもよいだろう。