木村榮一『ラテンアメリカ十大小説』

ラテンアメリカ十大小説 (岩波新書)

ラテンアメリカ十大小説 (岩波新書)

『月と六ペンス』などで著名なイギリスの作家サマセット・モームは、小説の創作だけでなく評論活動も活発に行なっていた。 

『世界の十大小説』という本は、モーム自身が古典的な価値のある小説を十作品選び、簡単な解説を附したブックガイドで、作品評を超えてどのように小説を味わうべきかという点まで実作者ならではの視点で紹介されており、ぼくも学生のころに読んでとても啓発された覚えがある。

ただ、 『世界の十大小説』は「世界」と銘打たれているにもかかわらず、取り上げられている作品が(メルヴィルの『白鯨』を除けば)全てヨーロッパの作品となっていて、世界的な広がりはまったく感じられないのが残念だ。

『世界の十大小説』 が刊行されたのが1954年と考えるとしかたないけれど、二十世紀、とくに二十世紀後半はヨーロッパの古典的な(言い換えれば近代的な)小説を超えた新しい文学観を持った作品が次々と現れた時代であり、ヨーロッパの文学だけ読んでいても世界文学の広大さは到底味わえなくなっている。

その近代文学を超えた新しい世界文学を代表するのがラテンアメリカの文学と言えるだろう。

スペイン語の翻訳家でラテンアメリカ文学研究の第一人者である木村榮一による『ラテンアメリカ十大小説』は、モームの『世界の十大小説』と同じ形式を取りながら、ラテンアメリカ文学を平易な文章で幅広く紹介するブックガイドだ。

どのような本が紹介されているかは実際に本書で確認してみてほしいが、全ての作品についてわかりやすい文章で魅力的に紹介されているため、どの作品もとてもおもしろそうに思えてくるし、すぐにでも読んでみたくなる。それに、既読の本についても物語の裏側にある出来事であるとか時代背景などを知ることができてとても理解が深まる。

そしてなによりも、文学作品は一つではけっして成り立たないということに改めて気付かされる。

ラテンアメリカ文学は文学史に突然現れた特異な存在ではなくて、フォークナーやヴァージニア・ウルフやジョイスなどによる近代文学の素地がなければ成立し得なかった。それに、同時代の作家にも相互に影響を与ることで作品はできている。あたりまえのことだけれど、そのことが本書を読むとよくわかる。

リビアルなエピソードもおもしろい。

マリオ・バルガス=リョサがパリで在住していた下宿で、以前金を払えずに追い出された者がいたと聞き、後に同じ時期にパリに住んでいたガルシア=マルケスにその話をしてみたところ、実は追い出された人物はガルシア=マルケス本人だったというくだりなどには思わず笑ってしまった。

堅苦しくなくておもしろい。ラテンアメリカ文学に興味があるのだけれどどれを読んだらいいのかわからないというひとにうってつけのブックガイドと言えると思う。

欠点もいくつかある。まず、この本で取り上げられている作品はスペイン語のものだけで、ポルトガル語やフランス語の作品は全く取り上げられていない。そのためブラジルやハイチの文学については本書ではわからない。  

また、この本で紹介されている作品の半分近くが絶版で古書価も高騰していて容易に読むことができない。ドノソの『夜のみだらな鳥』などは、ぼくも以前よりなんとしても読みたくて、しかし長らく絶版のうえ古書価がとんでもなく高いため図書館で借りようと思ったのだけれど、大阪市内の図書館にはこの本が一冊も置かれていないという状況でいかんともしがたい。

本書の出版を機にラテンアメリカ文学の傑作が次々と復刊されることを切に願っている。