フリオ・コルタサル『コルタサル短篇集 悪魔の涎・追い求める男 他八篇』

アルゼンチンの作家、フリオ・コルタサルの短篇集。 

ラテンアメリカの文学はガルシア=マルケスの諸作品に代表されるマジックリアリズムを持ち味としたものが多いけれど、コルタサルはリアルを担保しているものを根底から揺さぶるような奇妙な幻想文学をたくさん書いていて一線を画している。

例えば、作中の主人公が読んでいる小説の登場人物が主人公を殺しに現れる作品(「続いている公園」)であるとか、恐ろしい何者かに部屋を徐々に占拠され最後には家から追い出されるはめになるのだけれどその恐ろしい何者かが一体何なのか全く説明がなされない作品(「占拠された屋敷」)であるとか、口からどんどんウサギが出てくる作品(「パリにいる若い女性に宛てた手紙」)であるとか、とにかく妙な物語ばかりで、読んでいるときはいったいなんなんだこれはと当惑する他無いのだけれど、読後感は不思議な夢を見たあとのような、案外悪くない気分になる。フランツ・カフカの諸作品に結構近いかもしれない。

もっとも、カフカよりもコルタサルの作品の方が文学に対してずいぶん批評的に感じる。

「すべての火は火」という短篇は、舞台が全く異なるふたつの物語が同時に並行して描かれている。しかもそれらのエピソードが段落すら分けずに突然切り替わるため、読者は今自分が何を読んでいるのかわからなくなってきて、これはどっちの場面なんだと混乱してくるという趣向をとっている。

ジャンヌの手が軽く震え、少しずつ冷たくなって行くが、無関心な様子で愛撫を受けている猫はまだそのことに気づいていない。猫の身体から彼女の指がすべり落ち、一瞬爪を立てて痙攣すると、動きが止まる。猫が甘えた声を出し、あおむけになって両脚を動かす。いつもならジャンヌはそれを見て笑うのだが、今はちがう。猫のそばに置かれた手はじっとしたままで、わずかに一本の指が温もりを求めるようにかすかに動き、そっと猫の身体に触れる。だが、その手も生温かい脇腹とさきほど転がり落ちた薬瓶の間でふたたび動かなくなる。みぞおちを突かれたヌビア人は身体をのけぞらせて、絶叫をあげる。苦痛が憎悪の炎となって燃え上がる。全身から力が抜けていくが、残った力を腕に集めるとヌビア人はうつぶせに倒れている相手の背中に三叉の槍を深々と突き立て、そのままマルコの上にどっと倒れかかると、身体を痙攣させて横ざまに転がる。マルコは輝く昆虫のように闘技場の砂の上に突き差されたまま、腕をのろのろ動かしている。

上の文で言うと、「みぞおちを突かれたヌビア人は〜」の部分で場面が変わっている。注意深く読んでいないとそれに気づかない。ふたつの物語は関係があるような無いような微妙な距離感があって、それも含めてどんどん境界があいまいになっていってとてもおもしろい。小説というものそのものに対しての視点、枠組みに対しての視点が貫かれている。

カフカにしたって目が覚めたら毒虫になっていたあれ以外にも、川にかかってる橋が主人公の短篇だとか、ものすごく変な作品をいろいろと書いてるんだけど、コルタサルの作品はそれよりももっと実験的に感じる。

この短篇集の中でぼくが一番好きな作品は「南部高速道路」だ。高速道路が渋滞に巻き込まれて自動車が一向に進まないため、偶然周りにいたひとたちとの共同生活のような状況に巻き込まれ奇妙な連帯感が生まれる。やがて渋滞は解消されて自動車はスピードに乗って走りだすのだけれど、いままでまわりにいたひとたちはいつの間にかどこかに行ってしまって二度と会えなくなってしまう。要約すればたったこれだけの作品なんだけど、車が走り出すシーンの疾走感と周りから知っているひとがいなくなっていく喪失感がほんとうにすばらしい。他人を名前で呼ばずに乗っている車の車種で呼ぶ(「ポルシェ」とか「シボレー」とか)のも絶妙だと思う。この作品を読んだのは二回目だけど、最初に読んだ時よりもずっと感動した。