フォークナー『響きと怒り』

響きと怒り (講談社文芸文庫)

響きと怒り (講談社文芸文庫)

もしあれが四十五分の鐘だとしても、あれからまだ十分以上はたっていなかった。ちょうど一台の電車が出たあとで、早くも次の電車を待つ人々がいた。ぼくがたずねると、相手はあなたの乗ろうというのは都市連絡電車だろうから、正午前に出るかどうかわからないといった。と案の定最初にきた電車はまた市街電車だった。ぼくは乗った。だれしも正午を感じることができるものだ。地下の鉱夫たちでさえそれを感じられるのではないかと思う。正午のサイレンがなるのはそのためなのだ。精出して働いている人々は自分でそれが感じられるが、もし仕事から遠ざかると、サイレンは聞こえなくなるだろう。そして八分もすると自分はボストンへいってしまってそれが聞こえなくなるほど仕事から遠ざかるにちがいない。人間はその人の不幸の総和だと父はいった。がいずれは不幸の方がくたびれるかも知れないと人は思うかも知れない、だがそうなるとこん度は時間がお前の不幸となるのだと父はいった。一羽の鷗が空中に張られた眼には見えない針金の上を引っ張られていくように動いている。お前は自分の挫折の象徴を永遠の中に運び込んでいるのだ。すると翼がだんだん大きくなるが残念ながらハープを奏いてくれるものはいないと父はいった。

「ミルク」

ミルク [DVD]

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エンターテインメントとしておもしろいし、ショーン・ペンの演技も素晴らしかったけれど、でもまあ「エレファント」の方が遥かによかったよなあと思ってしまう。

終盤でハーヴィーの恋人が首を吊って自殺するという重大な事件が起こるのだが、これが驚くほどあっさりとしか描かれない。所詮は政治の物語である。

「愛、アムール」

愛、アムール(字幕版)

愛、アムール(字幕版)

仏教では人間が避けることのできない根本的な四つの「苦」が規定されている。すなわち、生きること、老いること、病むこと、死ぬことだ。これらを併せて四苦と言う。仏教でいう「苦」とは単純な苦しみのことではない。ままならない、思うようにならない、どうにもならないことという意味だ。不条理と言い換えてもいいだろう。人間は生老病死の四苦を絶対に避けることができない。どんな人間も等しく絶対に。

「二の矢を受けず」という言葉がある。仏陀とはあらゆる煩悩から解き放たれた者という意味だけれど、仏陀であろうとも「苦」を避ける事はできない。なぜなら、四苦はどんな人間にも等しく絶対だからだ。しかしであれば、悟りとはなんであろうか? 仏陀となっても「苦」から逃れられないとしたら、仏の道を究めることになんの意味があるだろうか?

原始仏教における最初期の経典である言行録『サンユッタ・ニカーヤ』で釈尊はこう答えている。「二の矢を受けず」と。

不意に襲いかかる矢はだれにも避ける事ができない。そして凡夫はその矢を受けることで慌てふためき、さらには追い討ちの矢までも受けてしまう。しかし仏の教えを知る者は、一の矢が絶対に避けられないことを知っている。だから一の矢を受けても慌てることなく、冷静に二の矢を避ける事ができる。

言うまでもなく矢とは「苦」の例えである。人間は避けられない「苦」に思い悩まされる。しかし仏陀一切皆苦――この世界は「苦」を本質としていること――を知っている。これを苦諦という。苦諦を得た仏陀は一の矢、すなわち四苦について思い悩み、新たな「苦」を生むことがない。四苦を受けることについて囚われ、さらなる「苦」に悩むこと、それこそが二の矢である。

「二の矢を受けず」――仏陀は四苦に悩むことはあっても、苦諦の境地にあるためそれに囚われることはない。

しかし、それは誰にでもできることではないのだ……。

「冷たい熱帯魚」

冷たい熱帯魚

冷たい熱帯魚

史上に名を残す残虐な犯罪として知られる埼玉愛犬家連続殺人事件をモチーフにした作品ということで、凄惨な映画なのだろうとだいぶ身構えていたのだけれど、なんだこんなものかと拍子抜けしてしまう。

親子の関係、夫婦の関係、暴力と支配、殺人と狂気、あらゆる全てをカリカチュアライズしすぎだと感じる。悪い意味で漫画的だと思う。

登場人物たちがなんとかギリギリ関係性を保っている前半と、それが決定的に壊れてしまった後半で、同じ構図のカットをリフレインし差異を強調する点や、手持ちカメラを随所に使い切迫感と臨場感を煽る演出は見事で、思わず吹き出してしまうほどのセリフまわしの巧みさはコメディとして抜群のおもしろさでもあり、二時間超があっという間ではあるが、しかしおもしろいだけの映画は自分には物足りない。でんでんの怪演が唯一目を引いた。

F.O.マセーシン『ヘンリー・ジェイムズ』

現在、私たちが主として注意しなければならないのは、ジェイムズの方法と「意識の流れ」の小説の間には大きな差異がある、という事実である。「意識の流れ」というこの言葉は、『心理学の諸原理』の中でウィリアム・ジェイムズが用いた言葉であるが、弟ヘンリーの小説には、フロイト以後の小説に特徴的な暗い意識下の衝動の噴出がまったく見られない。ジェイムズの小説は意識の全域を扱う小説というよりは、むしろ厳格に知性の小説である。

トマス・ピンチョン『逆光』

逆光〈上〉 (トマス・ピンチョン全小説)

逆光〈上〉 (トマス・ピンチョン全小説)

逆光〈下〉 (トマス・ピンチョン全小説)

逆光〈下〉 (トマス・ピンチョン全小説)

そのころキットは、応用力学研究所を頻繁に訪れるようになっていた。そこでは、近年プラントルが境界層を発見して以来、研究が目まぐるしく進み、揚力と抗力の問題に関して熱心な探求が行われ、動力飛行が羽毛の生えそろった鳥のように歴史の縁に止まっていた。キットが空港力学に注意を向けたのは、何も考えずにヴァイブの屋敷に滞在したとき以来だった。ヴァイブ一家に連れられてロングアイランドにゴルフに出掛けたとき、彼はぶつぶつボールを知った。それはグッタペルカ製のボールで、完璧な球形ではなく、故意に加工して表面に小さな瘤状の突起を付けてでこぼこにしたものだった。そのとき彼が気づかずにいられなかったのは――スカーズデール・ヴァイブのような連中がなぜか好むこのゲーム自体にはあまり興味を持てなかったが――ある種の飛翔の神秘だった。特にティーショットの際、打ったボールが急な角度で上昇するのを見たときには否定しがたい心の高ぶりを覚えた。重力を否定するようなその興奮はゴルファーでなくとも理解できた。それ以外にもゴルフ場には浮世離れした雰囲気が漂っていた。市民通りの反対側にある小宇宙にますます引かれるようになったキットは、間もなくゴルフボールの表面のぶつぶつの意味を理解した。境界層で乱流が発生すると、ボールの速度が落ち、空中を飛ぶボールの運命が否定される。それを防止するのが表面のでこぼこなのだ。工学系や物理学系の学生がよく訪れる酒造通りの酒場で彼がその話をすると、すぐに何人かが地球を引き合いに出した。でこぼこのある巨大な扁球は、エーテルの中を進むとき、第三の次元の方向に揚力を受けるのではなく、ミンコフスキーの「四次元物理学」を通じて、幸福感にあふれた世界線に沿って揚力を受けるのではないか、と。

ディーノ・ブッツァーティ『タタール人の砂漠』

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

確信は次第に薄れていった。人間はひとりっきりで、誰とも話さずにいる時には、あるひとつのことを信じつづけるのはむつかしいものだ。その時期、ドローゴは、人間というものは、いかに愛し合っていても、たがいに離ればなれの存在なのだということに気づいた。ある人間の苦しみはまったくその人間だけのものであり、ほかの者は誰ひとりいささかもそれをわがこととは受け取らないのだ、ある人間が苦しみ悩んでいても、そのためにほかの者がつらい思いをすることはないのだ、たとえそれがいかに愛する相手であっても。そしてそこに人生の孤独感が生じるのだ。